無名烈士八十年忌法要

 本日、無名烈士八十年忌法要が行われ、阿形・水野・吉田が出席しました。




 
 
 義挙のあらまし

 
 大正十三年五月三十一日早朝、赤坂米国大使館隣の焼け跡(井上子爵邸)に、従容として自刃された一体の遺骸がありました。
 赤坂表町警察署宛の書面には「一般氏名不詳の自殺者として死体取捨相願度」と書かれてあり、「命も要らぬ名も要らぬ」境地からの覚悟の行動であることを偲ばせました。米国の所謂「排日移民法」に抗議して自ら命を断ったその烈士は、米国政府ならびに同国国民に道義的反省を促す以下のような遺書を東京駐在米国大使に残されました。
 
 最も能く日本を了解せられて深く暑く日本に同情を寄せられたる米国大使サイラス・イ・ウッズ閣下の帰国に託して全米国の反省を望むため死を以て切願す大使閣下諒せられんことを祈る
 米国民の反省を望む要件左に
 一、新移民法から排日条項を削除する法案を決議せられん事を
 理由
 予が死を以て排日条項の削除を求むるものは貴国が常に人道上の立場より平和を愛好唱導せられ平和の指導者として世界に重きを思はしめつつある貴国が率先して排日法案の如き人道を無視した決議を両院通過して法律となる如きは実に以外の感に堪へざるなり
 人類生存上憤怒する場合種々あるも恥辱を与えられたる憤怒は耐え難きものなり耳止しめらるべき事情ありてはずかしめらる大ひに悔ひ忍ばざるべからず故なくして耳止しめらる憤怒せざらんと欲するも耐え難きなり。
 予は日本人なり今将に列国監視の前に於て貴国の為に耳止しめらる故なくして耳止しめらる(故ありと言はば故へは貴国の故へなり)生きて永く貴国人民に怨みを含むより死して貴国より伝へられたる博愛の教義を研究し聖基督の批判を仰ぎ併せて聖基督により貴国人民の反省を求め尚ほ一層幸福増進を祈ると共に我日本人の耳止しめられたる新移民法より排日条項の削除せられん事を祈らんとするにあり
 
 大日本帝国 無名の一民
 
 サイラス・イ・ウッズ閣下を通し
 亜米利加合衆国国民諸君
 

 米排日移民法について


 無名烈士が一死以って抗議をされた所謂「排日移民法」は、公称としては「一九ニ四年移民法」と呼ばれ、大正十三年四月に米国上下院で法案として可決され、五月二十六日クーリッジ大統領の署名により成立したものです。
 同法案の骨子とするところは欧州からの移民流入を制限した「一九ニ一年比例制限法」の強化と恒久化(国別移民受入数の歩合割当)でありましたが、日本人にとって重大な点は、同法が第十三条で「合衆国市民となる資格なき外国人は一定の除外例中に入るものの外すべて入国することを許さず」とし、大正十一年十一月の米国大審院「日本人は帰化不能な外国人である」との判決と合わせ、事実上日本人の移民入国を禁止していたことです。
 同十三条がなくとも日本人の移民入国割当は年間百四十六という微々たる規模であり、同法が敢えて十三条を通じて表明したところのものは、日本及び日本人に対する差別待遇が「米国の正義人道」に反せざるものであるとの意思であったわけであり、そこにこそ同法案の問題点がありました。
 さかのぼって大正十年〜十一年、海軍軍縮と極東・太平洋地域のおける国際問題の解決を目的に開催されたワシントン会議(米・英・日・仏等九カ国が参加)は平和主義と国際協調主義を高唱し、日本は同会議において海軍主力艦保有比率を対米六割に限定、日露戦争以前より日本の安全保障の要であった日英同盟を放棄、欧米列強の中国に対する進出機会均等保障を意味する九国条約に調印しました。
 しかし海洋国家としてアジアへの本格的進出を企図していた米国は、表面平和と国際協調の実現を名目に、実は日本を世界戦略上の仮想敵国としてその軍事力・外交力の圧殺を狙っていたのです。ワシントン会議の後二年を経ずして成立した「一九ニ四年移民法」は、はからずも米国朝野に存在する根強い排日潮流の存在を見せつけるものでありました。
 
 
 日本朝野の憤激

 
 度重なる日本外交当局の抗議にもかかわらず成立した「一九ニ四年移民法」の人種差別的な本質、口に平和と国際協調を唱導しつつ日本を敵視する米国の「二重標準」は日本の朝野に大きな憤りを巻き起こし、米国に抗議する国民運動が大々的に展開されました。
 既に同法案が米議会を通過する過程において、東京所在の新聞十五社による法案の不当性に対する共同宣言書の発表、各大学横断の学生有志による「排日問題大演説会」の開催をはじめ、要路への投書などの抗議行動がなされました。
 中でも大正八年のヴェルサイユ会議以来、国際政治の各場面に於いて日本の国論としての「人種差別の撤廃」実現を推進し、またワシントン会議における海軍軍縮の危険性を主張してきた黒龍会主幹・内田良平先生は、四月二十日東京で対米抗議国民大会を開催され、全国的な対米抗議国民運動の急先鋒となりました。先生は五月二十六日大統領署名による同法の成立を強く憂慮され、早急に国論を喚起して米国の反省を促すべく、遠山満翁を始めとする諸有志と諮り、更に大規模な対米国民大会を準備されていました。この状況下で突発したのが前記無名烈士の義挙であった訳であります。

 慰霊顕彰のことども


 無名烈士の御遺族は赤坂表町署に収容され、法規上行路病者同様の埋葬措置をせざるをえない状況にありました。しかし対米関係に於いて覚悟の自刃をされた烈士を深く悼む国民大会準備の諸有志は、慰霊顕彰のことを深く期して警察と交渉し、当局の同情ある配慮の下、御遺影の下げ渡しと遺書の写真複製を許可されました。内田先生を始め諸有志の準備になれる対米問題国民大会は、六月七日貴衆両院議員・在野有志三百七十余人を発起人として開催され、当日は「雪崩のごとく殺到する会衆を以て、さしも広大なる館内も立錐の余地なく、その数約五万と算せられ、入場し得ざるもの尚数千に及ぶ」(『巨人遠山満翁』)という有様となり、この時無名烈士の義挙が大きく一般に知れ渡りました。同大会は@対米抗議の決議、A国民対米会(対米戦略を検討・推進する国民運動。事務所を黒竜会出版部内に設置)の組織と並び、無名烈士の国民弔祭会執行を決議いたしました。
 どう決議を実行する形で翌八日、内田先生を始め頭山満・田中弘之の両翁が発起人となり、青山斎場にて無名烈士国民弔祭会が開催され、当日の会衆は三万人に達しました。また、黒龍会では陸軍省及び東京市役所と交渉し、青山墓地の片隅にあった旧陸軍墓地の払い下げを受け烈士の御遺骨を無事埋葬するを得ました。墓石には頭山翁が題字を揮毫、内田先生が撰文をなされその義挙の意義を後世に伝えることとなりました。
 以降無名烈士の墓の守護は黒龍会でなされて、その慰霊は内田先生没後に於いても継承されました。戦後に於いても大正以来の内田門下である鈴木一郎先生は、春秋の彼岸に独り羽織袴の正装に身を正し、会衆三万人の国民弔祭会当日と変わらぬ厳粛な態度で慰霊を続けておられました。
 
 今日噛み締めるべきその意義

 
 無名烈士が死をもって抗議した米国のその後の策動は賛言を要しませんが、昭和二十年八月十五日大東亜戦争に敗れた祖国日本は、六十年近くを経て猶、憲法・政教・国防・教育等の諸問題に於いて、米国によって仕掛けられた占領体制の呪縛に苦悶しつつあります。また支那・北朝鮮・韓国等による内政干渉と反日・侮日の嵐は吹き荒れ、往時に勝るとも劣らない厳しい状況にあります。国歩艱難の中に迎える無名烈士の八十年忌は、今日を生きる我々に実に多くのことを問いかけてまいります。
 今日を生きる我々に実に多くのことを問いかけて参ります。
 今日の日本人の大多数が安全保障の全面的な後盾と依存している米国の世界戦略、そして米国がアフガニスタンあるいはイラクで自らをその代表者と擬する「文明」と「人道」の本質や如何。かかる米国戦略の枠内で国軍再建=自主国防体制の確立もままならず、かつて有色人種唯一の独立を保持した国家の後身に相応しい世界政策の実行叶わざるその病根や如何。無辜の同胞数十名を非道にも拉致され、血税を支出せる巨額の援助物資を身代に搾取され続け、これ平然たる政治家が大手を振れる社会の精神や如何。近隣諸国による我が国土に対する不当なる占拠、歴史教科書そして護国英霊祭祀に対する度重なる内政干渉を許容せる国家の体質や如何等々。
 八十年前、侮日的なる米国移民法に抗議し身を捨てて顧みなかった無名草莽の悲懐を祀る時、悲しむべき今日の状況は、現代日本国民個々の民族意識の欠落、そして何より道義心とそれを出処進退に現して行く勇気の欠如の然らしむる所と痛感いたします。先人顕彰の根本義は、志の継承による現前の国難打開にあると存じます。本法要有縁の各位が、国民の道義心作興、祖国の完全独立、そして明治維新以来の民族的且つ世界史的使命に立脚した国是国策の樹立に向け、益々健闘されることを祈念し、またそれこそが無名烈士の真の慰霊となることを信ずる次第であります。
 
 
                                                皇紀 2673.6.02




<前回のニュースへ>